4月下旬の閑話


[TAKESIの部屋] [旬の話題] [仙台方言あそび] [閑話365日]


4月21日(土)ラショウモンカズラとジュウニヒトエ

ラショウモンカズラとジュウニヒトエが花盛りになった。野生のありふれた花である。野の花だけあって丈夫で何の手入れもしなくても毎年出てくる。双方とも紫色の花をつける。前者は明るい湿った土地、後者は日向の乾いた土地を好むようだ。

ラショウモンカズラはシソ科の植物だと言う。そう言われてみれば花の形がシソの花そっくりだ。花の名前は平安時代に京都の羅生門に棲んだ鬼女に因む。豪勇で知られた渡辺綱(わたなべのつな)が切り落とした鬼女の腕の形に擬えたものだと言う。

ジュウニヒトエとは優美な名の野草である。花穂に小さな花が重なり合う様を平安時代の女官が着用した「十二単」に擬えたものと言われている。この花は本州と四国に分布しているシソ科の植物で日本固有種である。名前が優雅で花も美しいにもかかわらず、詩歌や文芸に取り上げられることがないのはどうしてだろう。


4月22日()金蛇水神社

一気に夏になったような天候である。慌てて夏の下着を出した。歳をとって適応能力が衰えたようで、からだが戸惑っている。昨日の午後買い物に出たとき、子連れの若いお母さんとすれ違った。三歳ぐらいと思われる女の子の手を引き、乳母車には乳児を乗せている。子どもも幼児も地面に近いからアスファルト舗装の照り返しで大人以上に暑さを感じているに違いないと思った。

お母さんは日傘をさし、乳母車の子は幌のお蔭で直射日光から守られているが、手を引かれている女の子には太陽が容赦なく照り付けて可哀想だった。老人や幼児は脱水症状を起こし易いと言う。外出の際はこまめに水分を補給し日陰で休むように心掛けることが大切である。

炎天下、元気に歩き回っているのはアリとネコぐらいなもので、ニホンカナヘビも日陰でじっとしている。宮城県岩沼市に金蛇水神社と言う社があり蛇と水の神様から力を授かるパワースポットとして信仰を集めている。金運上昇、商売繁盛にもご利益があるそうだ。

この神社は古い由緒ある神社である。一条天皇から刀を鍛えるよう求められた京都の刀鍛冶・三条小鍛冶宗近が名水を求めて水神を祭る岩沼の地にたどり着いた。ところが田んぼのカエルの声がうるさくて仕事に集中できなかった。そこで宗近が蛇の姿をした置物を作り田んぼに放つとカエルが鳴きやみ、無事に名刀を鍛え上げることができたと言う言い伝えがある。宗近はそのお礼に雌雄一対の金蛇を造り水の神に奉納したという。境内には蛇の模様が浮き出た「蛇紋石」がたくさん並んでいる。


4月23日(月)運動の効用

昨日は真夏のような暑さだったのに今朝は一転して肌寒くなった。冷房に切り替えたエアコンをまた暖房に戻した。何とも気まぐれな天候である。昨日の炎天下、羽生弓弦選手の凱旋パレードが仙台市中心部を通行止めにして行われた。11万人近い人々が沿道を埋め尽くし日の丸の小旗を持って出迎えた。晴れ姿を一目見ようと、中国やアメリカ、スペインなど海外から駆け付けた人もいたと言う。

「スポーツに国境なし」と言われるように、傑出したスポーツ選手の演技は国境を越えて人々に感動を与える。スポーツ選手の活躍を国威発揚などに利用するのはいただけないが、スポーツには人々を明るくし勇気を与えてくれる効果がある。

スポーツとは言えないまでも、何度も転倒しながらやっと自転車に乗れるようになった時の爽快感、鉄棒で苦手だった逆上がりができるようになった時の喜びなどは多くの人が経験する。適度の運動は老化防止にも役立つ。走ることが難しくなったら歩くだけでもいい。歩くのが困難になったら椅子に腰かけてできる運動でもいい。とにかく体を動かすことが血行を良くし脳の活性化にもつながるらしい。

運動の機会はどこにでもある。通勤で目的地の一つ手前のバス停で降りて歩くもよし、勤め先のエレベーターを使わずに階段を登るのもいい運動になる。台所に立っている主婦だって工夫次第で「ながら体操」ならできる。健康に老いる準備は若いうちに始めるのが効果的だ。


4月24日(火)騙す

露地植えのイチゴの花が真っ盛りである。5弁あるいは6弁の純白の花である。碌に手入れもしないから不揃いで形が悪い実しかならないけれども完熟したイチゴは旨い。犯人は主にヒヨドリだと思うが実が食い荒らされるので覆いをして防いでいる。それでも防ぎきれないのは自然豊かな山際に住んだ因果と諦めている。

イチゴの需要がいちばん多いのはクリスマスシーズンらしい。そのために苗を一度寒さに当てて冬だと勘違いさせてから暖かいハウスに移して育てると真冬にイチゴが稔るのだそうだ。本来秋に咲くキクの花がお盆や春のお彼岸に花屋さんに並ぶのも、人工的に日照時間と温度管理をして咲かせていると聞いた。商売のため本来の花の生理を騙している訳だ。

植物を騙すのは罪にはならないが人を騙すのは犯罪だ。特に独り暮らしの老人を狙って、息子を名乗ってお金をだまし取る詐欺が多発している。寂しく暮らしている老人を言葉巧みに騙してクレジットカードを入手し現金を引き出す手口が多いようである。口車に乗る前に本物の息子に確かめることを、なぜしないのだろうと訝しく思う。

わが家には幸いにもと言うか不幸にしてと言うべきか分からないけれども、蓄えがないから現金を騙し取られる心配はない。でも夫婦ともども認知症にでもなったら不動産を騙し取られることだってあり得るのだろうなあ。


4月25日(水)臨時休刊


4月26日(木)ミズ

家の東側の湿り気のある所にミズ(ウワバミソウ)がたくさん生える。今朝一握り摘んで来た。味噌汁の具にしたり湯通しして味噌と少量の酢と一緒に叩いてミズとろろにして食べるとおいしい。皮をむいてから調理するのが普通であるが、取ったばかりの若い茎は葉をむしっただけで生で叩いてもいい。

山菜の中ではクセがほとんどないし、生えている場所を覚えれば短時間に大量に摂れる。夏にかけてが最盛期で9月ころまで採取できる息の長い山菜である。けれども皮むきが大変だから採るのはほどほどにした方が賢明である。山菜市では皮をむいたものも売っている。ウワバミソウと言う名はウワバミ(大蛇)が棲んでいそうな湿った場所に生える草と言う意味である。葉腋についているムカゴと地下茎で繁殖する。


4月27日(金)アイスクリーム(その1)

小生が小学生のころアイスクリームは夏の食べ物だった。それがいつの間にか年中食べるものに変わった。かつては自転車にアイスボックスを積んで幟を立てたおっさんが、子ども相手に商売をしたものだった。現在ソフトクリームの容器に使われているような三角コーンで商いをしていた。

食べたいと思ったが母は買ってくれなかった。不潔だと言うのだ。立小便をした手を洗いもしないで商売しているのを知っていたからだろう。ところでアイスクリーム発祥の地は意外なところである。それは地中海に浮かぶシシリー島だ。どんな経緯で生まれたのか不明であるが1530年のことだと言う。

日本人で最初にアイスクリームを食べたのは万延元年(1860年)に日米通商条約批准のためアメリカに派遣された使節団一行だった。一行の中に町田房蔵という旗本がいて、帰国後横浜で「あいすくりん」の名で売り出した。どこで誰から製造技術を学んだのか分かっていない。

アイスクリームが日本人に受け入れられるようになったのは明治10年代になったからである。しかも本物のアイスクリームを口にできたのは裕福な人だけで、庶民はまがい物の氷菓子のアイスクリンで我慢したのである。小生が濃厚な本物のアイスクリームに出会ったのも社会人になってからだった。


4月28日(土)アイスクリーム(その2)

町田房蔵がアメリカで食べたアイスクリンとはどんなものだったのか。彼自身が書き残した記録ないので詳細は分からない。しかし咸臨丸でアメリカに渡った柳川当清が書き残した日記にアイスクリームについて大略次のようなことを書いている。

「珍しいものを食べた。氷をいろいろに染め、物の形を作りこれを出す。味はたいへん甘く、口に入れるとたちまち溶けて誠に美味しい。これをアイスクリンという」。町田房蔵が作ったアイスクリンはおそらくこれを模したものだったのではなかろうか。

しかし、それは今われわれが食べているアイスクリームとは違うものだったようである。筒形の金属容器に水とデンプンと砂糖を入れ、砕いた氷に塩を入れて氷点下にした氷水の中で撹拌して固めた程度のものだったらしい。シャーベットのようなものだったのだろうか。

日本で本格的なアイスクリーム製造が始まったのは大正10年のことで、明治乳業が関連会社の極東練乳の三島工場でアメリカ式アイスクリームを作ったのが始まりらしい。売り上げは好調で大正13年には東京・両国に工場を建てるほどだった。昭和に入って雪印乳業も参入する。アメリカでアイスクリーム製造のノウハウを学んだ二人の技師を中心とした本格操業だった。

その当時どんな容器に入れられていたのか分からないが、現在のような便利な紙パックがなかった時代だから業務用が主流で、スーパーなどで簡単に買えるものではなかったのではないか。今ではチョコレートの粒入りやペパーミント味のものなど、多様なアイスクリームがあってどれにしようかと迷うほどになった。ニュージーランドで食べて虜になった蜂蜜の粒入りアイスが懐かしい。



明日から5月6日まで休刊


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